構造的に仕組まれたラクーアの不自由について
私はラクーア。
私はラクーアに行く。仕事帰りにラクーアスパで温泉とサウナをきめて家に帰る。19時に裸で温泉に飛び込んで、サウナをきめたら、20時30分には家に着く。ラクーアから家までは徒歩5分だ。歯は磨いてある。髭も剃ってある。下着も着替えてある(メッシュバッグにいれて会社に持っていく)。飯を食ったら(多くの場合サウナの前に食べてある)寝るだけだ。家の風呂にはめったに入らない。シャンプーが減らない、水道光熱費の節約にもなる、シャンプーや水道光熱費の節約の代わりに出て行く金がある、ラクーアフィットネスジムの月会費だ。
月会費は2万4千700円だ。会員にはランクがある、ジム会員にスパのadd onができる。スパのadd onにも種類がある。休日・祝日も使える会員、ヒーリングバーデという岩盤浴エリアにアクセスするには月会費はもっと高くなる。
月々2万4千700円の出費。温泉+サウナ+ジムの3つでこの値段だ。ジムにはプールもついている。シャンプー代や風呂の光熱費の節約分相殺されると考えると、悪くはない出費だと思っている。
大濠公園は福岡市内にある水をたたえた大きな公園だ。私はその公園が好きで福岡に引っ越した、と言っても過言ではないくらい、その公園が好きだった。その公園のスターバックスで読書をしたり小説を書いた。
私は去年の12月に東京に引っ越した。
ここに失くなったものを失くなった空洞を埋める分だけ、どこかから借りてこなければいけない。いけない、というわけないが、空いたポケットに、鞄に、なにか失くしたものと同じくらい愛おしく私が思えるものを詰めたくなった。代わりになにかを詰めてその失くなったもののかわりに新しいなにかを愛おしく思いたい、その対象が欲しかった。大濠公園の代わりにラクーアだ、と思った。東京に大濠公園と同じ規模の公園はきっとないだろうから。
私はラクーアを愛した。私はラクーアを私が福岡で大濠公園を愛するように、私は東京でラクーアを愛した。私が私は福岡に帰って来た、と大濠公園に足を踏み入れて感じたあの時のように、私が東京に帰って来たと感じられるのはラクーアの温泉に浸かっている時だった。
そのラクーアで異変があった。私は1月からラクーアを始めた、いまは9月だ。8か月通ったラクーアが今日はどうも様子がおかしい。風呂場にある背もたれのついた「ととのう用の椅子」がいつもより増えている。壁沿いに置いてあった椅子の前にもう一列、追加されている。金曜の夜だったから、混んでいるあいだ椅子を多く出しているのかもしれなかった。それまであったスペースに無理やり詰め込んだものだから、椅子同士の感覚は狭い。男たちはぎゅっとまとまってチルしている、二列の椅子に腰かけて、正面を向いてチルしている。ここは教室か、と思った。
温泉は自由だ。裸の自由だ。
裸の自由に、教室的な空間がつくられた。
私は気を取り直して温泉に浸かった、温泉はいつもより混んでいたから、増席は今日だけのことなのかもしれない。温泉を出て、私は水飲み場の蛇口で水を啜ってからスチームサウナに入った。ロウリュだ。柄杓でバケツから水を汲みサウナストーブで熱せられたカラカラの石に掛けるとアロマの入った水が蒸発していい香りがする。そのロウリュサウナには砂時計が備え付けられていて、その砂時計が落ち切ったらアロマ水を柄杓で垂らす。砂時計は使われる時もあったが、大体の場合、律儀にいちいちカウントする者もおらず、各々自由にロウリュしていた。
色々な人がいた。「ロウリュしていいですか?」とか「ロウリュしまーす」と許可を取ってロウリュする者。また、許可を得ない者もいる。いつまで経ってもロウリュしない者もいる。私はサウナは好きだがサウナの暗黙のルールは知らない。「ロウリュしていいですか?」とか「ロウリュしまーす」を耳にすると最初は気持ちが悪かった。そんなの自分で好きにしたらいいと思ったからだ。フィンランドの空港のラウンジにはサウナがあって本場を味わったが、フィンランド人のおじさんは手元にバケツと柄杓を置いて好きなタイミングでばしゃばしゃかけていた。私はそれを正とする。っていうか「ロウリュしていいですか」「お願いします」というやりとりは寿司屋のカウンターのやり取りみたいで、個人的にはサウナで遭遇したい光景ではない。
で、私はロウリュの掛け声については慣れた。まあ、そういうものだ。問題は今日、件の椅子を目撃し、気を取り直してロウリュサウナに入ろうとしたら、入り口に何やらラミネート加工の掲示が張ってある。そこには赤い字でこう書いてある。
「ロウリュをする際は、備え付けの砂時計が全て落ち切ってから、一回につき柄杓2杯まででお願いします」
そうきたか!
一語一句覚えているわけではない。次回、確認してみよう。とにかく、ロウリュのタイミングだけでなく、アロマ水をかける回数までルール化されている。
もちろん背景はあるのだろう、傍若無人にアロマ水を使いサウナを灼熱にする大体な男がいて他の客からクレームが来たのかもしれない、あるいはホルムズ海峡の閉鎖によってアロマ水が高騰して、節約の為なのかもしれない。あの同じ方向を向いた二列の椅子だって、混雑時にととのう場所を十分に確保するための配慮なのかもしれない。
しかし、それらの無自覚な構造的変化が、例えそれが善意から来るものであっても、構造的にラクーアを不自由に向けて誘導している。私は微妙なラクーアの構造的な変化が私たちから自由を奪うものだ、と気づいている。その構造的変化をもたらした主体者は構造変化が自由を奪うことがわからない。あるいは何も考えずにやっている。私はそういった無自覚な阿保が立ち上げた構造によって、不自由の方向にうねっていくことがたまらなく嫌だ。構造的にはユダヤ人迫害とか、神風特攻隊とか、群衆は「王様は裸だ」、と思っていても裸だと言えない、言えないし言わないと思っているうちに群衆は王様裸であることを進んで受け入れて構造的に不自由に向けて仕組まれたうねりに飲まれるのではなく、うねりそのものになってしまう。
私は今日、会社で起きた阿呆な上司の言動についてラクーアの湯の中で、サウナでずっと考えてもいた。その上司の言動が微弱な通低音として午後のあいだ私の中でずっと響いていて、そこにラクーアの件があった。ラクーアに椅子を増やし、それらを一方向に教室的に配置し、ロウリュの注意書きを掲示した人間の像が私の中でその上司と重なって湯気になって漂っていた。
私はラクーア。 私はラクーアに行く。仕事帰りにラクーアスパで温泉とサウナをきめて家に帰る。19時に裸で温泉に飛び込んで、サウナをきめたら、2…