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麻辣湯を啜る小野田美紀

生まれて初めて麻辣湯なるものを食べた。離婚に目途が立ち、福岡での育児ミッションも終えた軽やかな気持ちが私を、オレンジ色の楊国福麻辣湯というチェーン店に向かわせた。離婚の前祝いの食事とは遠いところに麻辣湯はあった。私はフライトの帰りそのままの足で、小石川のマンションに向かう途中にある、店の存在を知ってはいたけれど自分がいつか訪れることになるとは微塵も思っていなかった麻辣湯に私を向かわせたのは、軽やかな気持ちとフライトの疲れと、それから離婚の目途は付いたが正式には離婚が完了したわけではない混濁した世界がスパイスや具材の混じった麻辣湯に私を向かわせた、とも書けるけれど、実際、私は少し心が軽くなっていて、新しい世界に漕ぎ出すような気持ちがあった。新しいことの一つが、今日からの人生を飾る新しいことの一つが、海外旅行でも、資格取得でも記念の腕時計を買うでもなく、麻辣湯というのはちょうどいいような気もしていた。

私は麻辣湯が嫌いだった、と書くと今は好きなのかという話だけれど、麻辣湯は味として私の好みだったことを先に書いておく。なぜ麻辣湯が嫌いかと言うと大衆が群がる雰囲気そのものが嫌だった。で、嫌なものだけれど、毛嫌いせずに踏み込んでみてどうなるかの検証―。飯に同じ金額を払うのであれば少し変化をつけてみよう。入店。

シルバーウィーク最後の店内はお昼の時間を過ぎていたのに混雑していた。どのくらい混雑していたかと言うと、店の中に、行列ができている、行列は食材を陳列したむき出しの冷蔵庫に沿っている。列の先にはレジがある。レジの横には秤がある。なるほど、食材をピックアップして並ぶ、それはわかった。問題は順番で、最後尾に並んでしまっていいのか、並ぶ前に店員となにかやりとりが必要なのか、例えば食材の量などを事前に決めるなど、と思っていたら混乱してきてしまって、むき出しの冷蔵庫、レジ横の秤、行列、しかも店内は狭く行列もテーブルのよこすれすれに連なっている、視線があちこちに飛んで情報を処理しようとしているあいだに、なんだか背中がもぞもぞするような違和感があり、すっと引いて全体を見渡してみると、店内にオトコは私だけだった。それは予期できなかったことではない。麻辣湯を一人で食べにくるオトコは少数派だろう、という心構えも事前にあった。完全なアウェーにぽつんと初心者が紛れ込んで、なにがなんだかわからなくなって、レジの店員の手が空いた一瞬の隙に狭い店内を縫って声を掛ける。どこに立っているべきかも私にはわからない。

店員は眼鏡の女性で日本語が話せない、奥から店長らしきレジの女性と同じ中華系の骸骨マンそっくりのおば様がのそのそ出てきて、ボウルを取って列に並べばいい、たどたどしい日本語で教えてくれた。私は言われるがままに、まあるい透明なプラスチックのボールとトングを手に取り列に並んだ。背負っていたリュックがテーブル席に当たりそうになり、食事をしていた一組の若い女性に頭を下げた。なんだか申し訳ない、私の存在が申し訳ない、楊国福麻辣湯に存在している私の存在が大変申し訳ない存在になって楊国福麻辣湯という店の読み方もよくわからない。大変申し訳ない場所に私は置かれて、置かれた場所で咲きなさい。

列が進んでしまえば私もその空間に少しは馴染んできて、トングで食材を選ぶ段になってしまえば、この楊国福麻辣湯が一つの舞台だとすると私は演者のひとりに昇格だ。しいたけを一つまみ、エビ団子を一つまみ、そうだお野菜も摂らないと、空心菜も一つまみ、その他もろもろボウルに放り込む。鶏肉も同じトングでいいのかしらと逡巡を挟みながらボウルは完成しレジにそれを持っていくと先ほどの骸骨マンのおばさまが私の一つ前のお客さんと何やら話していて、6グラム足りない、と言っている。どういうことかと言うと、指定のグラム数に足りていないからボウルに何かを追加しろということで、なるほどそういうシステムか、目の前の女性は門前払いされたような感じだが彼女は列の一番後ろに再び並び直すなんて無能なことはもちろんせずに、レジの前からステップバックし横歩き、身体を冷蔵庫の方に傾けて適当な食材を見繕う、そして再び骸骨マンの審査があり合格のお墨付きをもらうと、スープの種類と辛さ、麺の種類を選んで支払いを済ませる。私はそこまでこの二つの目で観察していた。

私はグラム数が足りるのだろうか、合格できるのだろうか、恐る恐る骸骨マンに渡すと、先ほど言葉を交わしたから少しはフレンドリーなやりとりがあるかと期待したけれど、事務的な対応で骸骨マンは口を開いた「3グラム足りない」、私は3グラム足りなくても私の食べたい食材は食べたい分だけ選び取ったのだから、合格させてくれとお願いしようとした、しかしそんなことが許されないことは一つ前の女性が6グラムで門税払いされた光景を見ていたから、この厳格なルールには従わなければいけないのだと思って、重みのありそうなエビ団子を追加して、重量クリア、その後のスープ、麺の種類、辛さも無事に伝えて番号の書かれたレシートを受け取って席に着いたが、その席が4人掛けの小さなテーブル席の2人組の女性の隣で、私が私の存在を大変申し訳ないと思いながら頭を下げて席に着くと、それまでライブの話で盛り上がっていた二人の声のトーンが、一つ下がった。

「よんじゅうろく番お客様」と呼ぶのは眼鏡の日本語が得意ではない店員で、「の」が抜けている。その店員が番号札を読み上げる度に「の」、「の」、「の」と心の中で付け加えながら到着を待つ。麻辣湯が着く、美味しい。

麻辣湯を啜る、汗が出る。恥ずかしい。汗をかいてごめんなさい。楊国福麻辣湯が舞台であったならもう既に私はこの舞台の主要な登場人物のひとりではないか。スマホをみるのをやめる、背筋を伸ばす、余裕をもって周りを見渡す。隣の女性はコソコソと、ではないが、隣の異物の申し訳ない私の存在を意識しながら、だってこんなに近い距離で、オトコ一匹紛れ込んで意識しないわけがないのだ、マチアプで出会った男の悪口とか、男の悪口とか、男の悪口とか人目を憚らず言い合いたいはずなのに、やっぱりだめだ、私という申し訳ない存在が楊国福麻辣湯に紛れ込んでしまったが為にこの空間を汚染している―。

でもそれがなんだと言うのだ!

私はもう私自身をこの楊国福麻辣湯で申し訳ない存在だと思うのはやめにしよう、私は申し訳ない存在なんかじゃない、一人の人間だ、ああオトコだからか私が私をオトコであるから勝手に私を苦しめているだけだ。そうだ私は美紀だ。小野田美紀だ。なんでその名前かは知らん。とにかく私は小野田美紀だ、見た目は男だが、実は心は女で、バリキャリで虎ノ門の外資系企業に勤務する長身の美女だ。私はここで一番イケているオンナだ。私に来てもらって楊国福麻辣湯は喜んでいる、そこに居合わせている客も私の華やかさに圧倒されてこの空間は多幸感に満たされている!私は美紀だ、美紀は麻辣湯を啜る、美紀は汗をかく、美紀は麻辣湯を啜る、美紀は今日の自由を生きる!